理想の古本屋を夢見る
老いてなお夢をみる。
松山古書会館の建設である。そこには一階から5階ぐらいまであって、文学ー専門書がそろってある。作家別にあるいは分野ごとに整理してある。いくつかの古本屋が結集している。
店主と会話ができ、こんな本がはいりましたよ、いや珍しいですね―めったには入らない本ですね、いくらで売りますか、高い、いやそれでは売りません、などの声がする。ありがとうございますと答える。
こうなりたいという希望でした。希望というよりはむしろ私の妄想でした。
私にとっては、夢であり、そこに向うということだったはずですが、いまとなればはかないゆめでした。
古本屋は、その出発点から中小零細企業であったり、家族でやっている商売です。
(その形を変えたのがBOOKOFFだったと思う。)
古書会館建設の夢は私にはとうていできないことでもありました。東京の古書会館を見た時には松山にもきっとできるのではないかとおもっていましたが・・・ 古書会館はいくらか公的なものであり、そこでは単体としてのものと集合としてのものを区別するわけですから運営がたいへんだとおもいます。まずお金の問題と、もっと難しい問題は運営だと思います。同業者をひとつにまとめてその効果を図るというのは、だれでも持つ発想であり、バザールがそうであり、歴史的にも古いわけです。バザールとか、商店街がそうです。
いくつかの同業者が同調するのです。年配の、先輩たちがしっかりと指導していけばやれることではあります。
いくら優秀な魚とりであっても、一隻の大型漁船に他の漁民をぜんぶ載せて、太平洋の魚を全部捕ることができようか?-ちょっとたとえがおかしい。いくつかの漁船が獲ってきた魚を1ヵ所で売るところができたら、買う側にとっては魅力的なベニフィットがある。本読みにとってはたのしいところである。
写楽堂は、もはや小さな漁船でしかない。エンジンがだんだんと老朽化していくばかりである。修理にかけながらの操業中である。
わたしにはやれないし、やれなかった!非組合員であるしゃらく堂も愛媛県古書組合の組合員さまとは同じ集合=群集の一員である。組合員さまと非組合員をひとつにまとめ上げればとても大きな力になると夢想する。しかしこれは非現実である。一つの集団、社会団体は、異質なものを排除する傾向がどうしてもでてくる。
まとまれるものが愛集い協力していく姿は、はたから見ていても美しい。しかし新しいものを排除するけいこうはつづくのではないか。私は、松山の古書店は戦後4つの変革期があり、今4つ目の新しい波が来ていると考えている。
この状況で各古書店は世代交代を迎えながら、新しい古本屋ー理想の古本屋を追及している。
夢は続く。
古書店カフェーの出現である。 本好きの人が集い、その空間で本とたわむれる。読書会をする小部屋もある。腹を満たすこともできる。一人で勉強もできる。